2010年10月04日
しばらく放置していたブログを再開
沖縄に来て、細々と続けていたベランダガーデニング。
不幸により、介護(リハビリ)に関わっていた時間が空いたのと、
寂しさを紛らわせるために、打ち込み始めたら、はまっています。
我が家のベランダガーデニング歴史・・・をこちらに
まとめてアップしておきます。
ベランダガーデニングに興味のある方といろいろお話したいです☆
不幸により、介護(リハビリ)に関わっていた時間が空いたのと、
寂しさを紛らわせるために、打ち込み始めたら、はまっています。
我が家のベランダガーデニング歴史・・・をこちらに
まとめてアップしておきます。
ベランダガーデニングに興味のある方といろいろお話したいです☆
2007年05月19日
『沖縄喪失の危機』
気を抜いていたら、図書館の返却期限が
せまっていたので急遽読みました。
1975年、本土復帰の3年後に書かれた本で、
一般向けですが、面白かったです。
御嶽の関係で仲松先生の本を読みましたが、
こちらは、仲松弥秀先生の研究結果ではなく、
研究における信念を知るのに良いです。
意見書なので、自由に書かれているからでしょう。
ちょっとだけ紹介。
この本では、村落共同体について書かれています。
「因習的、排他的、閉鎖的、前近代的」と否定される
村落社会に対するイメージにまっこうから異議を
掲げています。pp.460-462から一部抜粋&要約
インド哲学を専攻した米国のコリン・ターンブル氏が
奥地アフリカ社会を研究し
「文明には、単なる物質的な富敏発展以上の意味がある。
ある人を『文明化している。』と考えるとき、
私たちは、彼が読み書きが出来、車を運転し、劇場や
音楽会に行く人のことだとは考えない。私たちの多くは
多分、他人に対して理解と配慮を持って筋の通った行動を
とる人を思い浮かべるに違いない。そしてこの点で、
部族的アフリカ人は、私達の中の飛び切り上等の人間にも
ひけをとらないほど開花している」といい、
法と秩序が自分の内部にあるため、アフリカ社会には
警察が必要ないことを紹介している。そして、これを受け、
「見た目には華やかで豊かな社会と思える現代文明国
社会は、その表面の豊かさと豊かさの程度に応じて
それだけ、人間性喪失の低級社会に成り下がっている
のではなかろうか」、「外来者をいたわり、かつ信用
していてた是等アフリカ社会人が、一旦文明人と称する
ものと接触するに及んで、他に対する警戒心、詐欺心が
醸し出されてくると言われている。なお彼等に対して
いわゆる文明的教育がなされると、自己内部の神とも
離れ、家族や村落とも離れ、今までの協力心からも離れ
自己優越競争心、怨恨、物質主義人間へと転化すると
いわれている。これから見るならば、文明的教育
なるものの実体に疑問を持たざるを得ないだろう」
と、いった具合に熱く語られている。
村落共同体内ではぐくまれてきた内なる神を
重要なものとしてとらえ、御嶽研究を進めて行く
のですが、私の中に、彼が「すっ」と入ってきました。
せまっていたので急遽読みました。
1975年、本土復帰の3年後に書かれた本で、
一般向けですが、面白かったです。
御嶽の関係で仲松先生の本を読みましたが、
こちらは、仲松弥秀先生の研究結果ではなく、
研究における信念を知るのに良いです。
意見書なので、自由に書かれているからでしょう。
ちょっとだけ紹介。
この本では、村落共同体について書かれています。
「因習的、排他的、閉鎖的、前近代的」と否定される
村落社会に対するイメージにまっこうから異議を
掲げています。pp.460-462から一部抜粋&要約
インド哲学を専攻した米国のコリン・ターンブル氏が
奥地アフリカ社会を研究し
「文明には、単なる物質的な富敏発展以上の意味がある。
ある人を『文明化している。』と考えるとき、
私たちは、彼が読み書きが出来、車を運転し、劇場や
音楽会に行く人のことだとは考えない。私たちの多くは
多分、他人に対して理解と配慮を持って筋の通った行動を
とる人を思い浮かべるに違いない。そしてこの点で、
部族的アフリカ人は、私達の中の飛び切り上等の人間にも
ひけをとらないほど開花している」といい、
法と秩序が自分の内部にあるため、アフリカ社会には
警察が必要ないことを紹介している。そして、これを受け、
「見た目には華やかで豊かな社会と思える現代文明国
社会は、その表面の豊かさと豊かさの程度に応じて
それだけ、人間性喪失の低級社会に成り下がっている
のではなかろうか」、「外来者をいたわり、かつ信用
していてた是等アフリカ社会人が、一旦文明人と称する
ものと接触するに及んで、他に対する警戒心、詐欺心が
醸し出されてくると言われている。なお彼等に対して
いわゆる文明的教育がなされると、自己内部の神とも
離れ、家族や村落とも離れ、今までの協力心からも離れ
自己優越競争心、怨恨、物質主義人間へと転化すると
いわれている。これから見るならば、文明的教育
なるものの実体に疑問を持たざるを得ないだろう」
と、いった具合に熱く語られている。
村落共同体内ではぐくまれてきた内なる神を
重要なものとしてとらえ、御嶽研究を進めて行く
のですが、私の中に、彼が「すっ」と入ってきました。
2007年03月26日
卒業式
23日は卒業式でした。
毎年卒業のシーズンは喜ばしい反面とても寂しいものなのですが、
今年は学年担当をしていたので特に寂しかったです;;
沖縄に来て、はや3年半。
1年生の後期から一緒に育ってきた学生は、いろいろな
人がいますが、全体的に学年を包む雰囲気は、
あたたかな思いやりと優しさだったな~と思います。
他の学年と比較したわけではないですが、とても
優秀な学年だったと思います。その理由として、
チームワークの良さ、この学年の子が自分たちを評して
そう言っていましたが、私もまさに同じコトを考えていました。
天才肌が競い合うというよりも(実際、天才肌系の人もいましたが)、
全員で励ましあって、お互いを高めあえるようなそんな関係だった
と思います。
何人かの核になる人が居て、その人達の気遣いが、
まわりに伝播していったように思います。
ちょっとづつの気遣いが、あれだけ集団のメンタル面での
安定した力になり、その落ち着いた人間関係に支えられて
個々人を輝かせることができるということ、すばらしい
ことだと思います。自分自身も学んだ気がします。
卒業したみんなも、今後、社会に出て、同期に恵まれなかったり、
会社の雰囲気がぴりぴりしている中でも、是非、思い出して欲しいです。
自分が、一番いい環境に置かれているとき、どんな風に笑い、
どんな風に語り、どんな風に物事に取り組んだのか。
きっと、自分が辛いときには頑張れる素になると思うし、
元気なときには周りに力を分けて上げられる素になれると思います。
また、プライベートでも多くの事を共有した学年でした。
婚約した時、この時は職場でも式に呼ぶ先生以外には
正式に話していませんでしたが、薬指の指輪が、ベビーパールから
ダイヤに変わったのに気がついて、「先生、もしかして・・・」と女子の間で
話題になっていたとか、妊娠した時も安定期までは職場にも報告して
いませんでしたが、妊娠3ヶ月くらいの段階で、学生のしかも男子の方が
早く気がついて、「先生・・・おめでたかな?でも太っただけかも?・・・、女子聞いてよ」と
話になっていたこととか。
・・・全部、後日談で聞きましたが
こんな細かいことに気がついてもらえるのも嬉しい(?)限りです
そういえば、沖縄での結婚式にも来てくれたんだった。
ありがとうございます
初めての学年担任が、あなたたちで本当に良かったと思います。
橋を渡って、遠い研究室まで足を運んでくれてありがとう。
そして、いろいろ学ばせてくれてありがとうございました。
ちょっと書いたらすっきり
別れは寂しいけれど、学生の巣立ちは嬉しいし、
私はまた一年、あたらしくはじめていかなくちゃ、と思います
毎年卒業のシーズンは喜ばしい反面とても寂しいものなのですが、
今年は学年担当をしていたので特に寂しかったです;;
沖縄に来て、はや3年半。
1年生の後期から一緒に育ってきた学生は、いろいろな
人がいますが、全体的に学年を包む雰囲気は、
あたたかな思いやりと優しさだったな~と思います。
他の学年と比較したわけではないですが、とても
優秀な学年だったと思います。その理由として、
チームワークの良さ、この学年の子が自分たちを評して
そう言っていましたが、私もまさに同じコトを考えていました。
天才肌が競い合うというよりも(実際、天才肌系の人もいましたが)、
全員で励ましあって、お互いを高めあえるようなそんな関係だった
と思います。
何人かの核になる人が居て、その人達の気遣いが、
まわりに伝播していったように思います。
ちょっとづつの気遣いが、あれだけ集団のメンタル面での
安定した力になり、その落ち着いた人間関係に支えられて
個々人を輝かせることができるということ、すばらしい
ことだと思います。自分自身も学んだ気がします。
卒業したみんなも、今後、社会に出て、同期に恵まれなかったり、
会社の雰囲気がぴりぴりしている中でも、是非、思い出して欲しいです。
自分が、一番いい環境に置かれているとき、どんな風に笑い、
どんな風に語り、どんな風に物事に取り組んだのか。
きっと、自分が辛いときには頑張れる素になると思うし、
元気なときには周りに力を分けて上げられる素になれると思います。
また、プライベートでも多くの事を共有した学年でした。
婚約した時、この時は職場でも式に呼ぶ先生以外には
正式に話していませんでしたが、薬指の指輪が、ベビーパールから
ダイヤに変わったのに気がついて、「先生、もしかして・・・」と女子の間で
話題になっていたとか、妊娠した時も安定期までは職場にも報告して
いませんでしたが、妊娠3ヶ月くらいの段階で、学生のしかも男子の方が
早く気がついて、「先生・・・おめでたかな?でも太っただけかも?・・・、女子聞いてよ」と
話になっていたこととか。
・・・全部、後日談で聞きましたが
こんな細かいことに気がついてもらえるのも嬉しい(?)限りです
そういえば、沖縄での結婚式にも来てくれたんだった。
ありがとうございます

初めての学年担任が、あなたたちで本当に良かったと思います。
橋を渡って、遠い研究室まで足を運んでくれてありがとう。
そして、いろいろ学ばせてくれてありがとうございました。
ちょっと書いたらすっきり

別れは寂しいけれど、学生の巣立ちは嬉しいし、
私はまた一年、あたらしくはじめていかなくちゃ、と思います
2006年08月27日
防犯まちあるき
おととしからのお付き合いで、那覇市内のある地域で
調査を行い、子どもたちの防犯まちあるきをしています。
ホームレスを排除するだけでまちは安全になるのか?
公園はホームレスを排除すべきか?
というのはランドスケープのなかでは議論になっています。
最終の受け入れ場所、居場所として、公園(コミュニティ)というのは
ホームレスも受け止めるくらいの器の大きさが必要なのではないか?
これは、安全を追求していく中で、危険を排除するだけの社会のあり方
への警鐘でもあり、監視カメラなどを使った管理型社会への警鐘でも
あると思います。
明日の地域の人とのまちあるきの事前講習会では、
危険箇所のチェックポイントだけではなく、コミュニティとして
どう受け止めるか、社会構造としてどうあるべきか、という
話を出来れば盛り込みたいなって思います。
『安全・安心なまちを子ども達へ 犯罪現場の検証と提言』自治体研究者 中村攻著(2005)
中村先生は、私の千葉大時代の恩師です。
(研究室は違いますが、最初の就職先を辞めて大学院にいくときに
相談に行った先生で、職業のことなども相談に乗ってもらいました。)
(私の理解では)共産主義的な信念をお持ちで、それは私の
理念とはかなり近いものがあり、非常に厳しい先生ですが、
尊敬しています。
明日の防犯まちあるきの準備のために、著書を読み返していたのですが、
やっぱりいいなぁって思ったので少し引用します。
アメリカ型市場原理の導入と、若年層の格差の広がりにより、犯罪やうつ病が
増えたような気がしています。
安全神話が崩れたことに関する統計的なデータは無いという本もありますが、
私は大人社会の雇用の場の不安定さが、犯罪事件の上昇以上に安全神話の崩壊に
つながったのではないかなと思っています・・・。
冒頭著書の序章で、犯罪が多発する社会構造について以下のように
俯瞰されています。(pp.16-20より要約&抜粋)
第二の問題と第三の問題の指摘が、私的には心に響きました。
第一の問題:人間の命をもっと大切にする社会規範を(イラクは、アメリカの侵攻以来すでに10万人を超える人々が命を落とした。人間が人間の命を奪っていることをあれこれお理屈をつけて容認している。こうした戦争などにも、もっと敏感になるべきだ。)
第二の問題:子どもたちに危険を加えている者の7割以上が「見たこともない大人の男性」である。勤労世代の男性によって多くの犯罪が起こされている。働く現場に大きな異変が起こっているのである。今日、我国のほとんどの職場では、競争原理とそれに基づく市場原理が所構わず吹き乱れ、働く人々は常に倒産やリストラの不安にさらされ、飽くなき競争に駆り立てられている。むしろこうした不安を原動力にして社会を動かそうとする様相すら見せている。(中略)あまりにも急激にして乱暴な市場原理・競争原理の導入によって、深刻なストレス型社会になっている。(中略)現地調査でも、公園のベンチで頭をうなだれ奇声を上げる背広姿の男性を見かけることも珍しくない。
第三の問題:経済価値に変住した生活から脱してバランスの取れた人間らしい生活を創造する事。今の日本は余りにも人間の動物的側面を刺激して、人間の持つ知的で理性的な側面を疎かにしている。物欲や名誉欲や性欲といった欲望だけが刺激され、欲望を抑えて精神的な内面の充実を図ることが軽視されているのである。欲望にとりつかれた獣のような哀れな存在に人間は貶められている。(中略)人間同士の共存、人間と自然との共存が大切で、欲望のみを肥大化し、精神的成長とのバランスを大きく崩すことにより人間の犯罪抑止力は後退する。
調査を行い、子どもたちの防犯まちあるきをしています。
ホームレスを排除するだけでまちは安全になるのか?
公園はホームレスを排除すべきか?
というのはランドスケープのなかでは議論になっています。
最終の受け入れ場所、居場所として、公園(コミュニティ)というのは
ホームレスも受け止めるくらいの器の大きさが必要なのではないか?
これは、安全を追求していく中で、危険を排除するだけの社会のあり方
への警鐘でもあり、監視カメラなどを使った管理型社会への警鐘でも
あると思います。
明日の地域の人とのまちあるきの事前講習会では、
危険箇所のチェックポイントだけではなく、コミュニティとして
どう受け止めるか、社会構造としてどうあるべきか、という
話を出来れば盛り込みたいなって思います。
『安全・安心なまちを子ども達へ 犯罪現場の検証と提言』自治体研究者 中村攻著(2005)
中村先生は、私の千葉大時代の恩師です。
(研究室は違いますが、最初の就職先を辞めて大学院にいくときに
相談に行った先生で、職業のことなども相談に乗ってもらいました。)
(私の理解では)共産主義的な信念をお持ちで、それは私の
理念とはかなり近いものがあり、非常に厳しい先生ですが、
尊敬しています。
明日の防犯まちあるきの準備のために、著書を読み返していたのですが、
やっぱりいいなぁって思ったので少し引用します。
アメリカ型市場原理の導入と、若年層の格差の広がりにより、犯罪やうつ病が
増えたような気がしています。
安全神話が崩れたことに関する統計的なデータは無いという本もありますが、
私は大人社会の雇用の場の不安定さが、犯罪事件の上昇以上に安全神話の崩壊に
つながったのではないかなと思っています・・・。
冒頭著書の序章で、犯罪が多発する社会構造について以下のように
俯瞰されています。(pp.16-20より要約&抜粋)
第二の問題と第三の問題の指摘が、私的には心に響きました。
第一の問題:人間の命をもっと大切にする社会規範を(イラクは、アメリカの侵攻以来すでに10万人を超える人々が命を落とした。人間が人間の命を奪っていることをあれこれお理屈をつけて容認している。こうした戦争などにも、もっと敏感になるべきだ。)
第二の問題:子どもたちに危険を加えている者の7割以上が「見たこともない大人の男性」である。勤労世代の男性によって多くの犯罪が起こされている。働く現場に大きな異変が起こっているのである。今日、我国のほとんどの職場では、競争原理とそれに基づく市場原理が所構わず吹き乱れ、働く人々は常に倒産やリストラの不安にさらされ、飽くなき競争に駆り立てられている。むしろこうした不安を原動力にして社会を動かそうとする様相すら見せている。(中略)あまりにも急激にして乱暴な市場原理・競争原理の導入によって、深刻なストレス型社会になっている。(中略)現地調査でも、公園のベンチで頭をうなだれ奇声を上げる背広姿の男性を見かけることも珍しくない。
第三の問題:経済価値に変住した生活から脱してバランスの取れた人間らしい生活を創造する事。今の日本は余りにも人間の動物的側面を刺激して、人間の持つ知的で理性的な側面を疎かにしている。物欲や名誉欲や性欲といった欲望だけが刺激され、欲望を抑えて精神的な内面の充実を図ることが軽視されているのである。欲望にとりつかれた獣のような哀れな存在に人間は貶められている。(中略)人間同士の共存、人間と自然との共存が大切で、欲望のみを肥大化し、精神的成長とのバランスを大きく崩すことにより人間の犯罪抑止力は後退する。
2006年07月18日
宜野湾の大山集落のまち歩き
湧水がいまでもきれい、という噂を聞いて、
大山集落でまちあるきをしてみました。

大山集落は、戦前から湧水が豊富な場所で
斜面の地形を生かして、湧水が得られる、集落下部に
田芋畑がひろがる集落です。遠くには、コンベンションセンターが
見えます。(海が広がっている風景だったときはもっときれいだったんだろうなぁ~
)

集落内の道路沿いにあって、やや人工的ですが
休日で洗車をしに来ている人がいるカー(ポンプでくみ上げています)

田芋畑に直接水を引いているカー。

今回、最もきれいだった、産水(ウブガー)。
正月の若水取りなどもしているそうです。
3つあるうちの手前の2つは女性用、奥は男性用で、
女性用は塀で囲われています。また、クチャという泥土で
髪を洗った場所も残っています。(写真中央)

あふれている水は冷たくて気持ちよかったです。
大山集落でまちあるきをしてみました。
大山集落は、戦前から湧水が豊富な場所で
斜面の地形を生かして、湧水が得られる、集落下部に
田芋畑がひろがる集落です。遠くには、コンベンションセンターが
見えます。(海が広がっている風景だったときはもっときれいだったんだろうなぁ~
)集落内の道路沿いにあって、やや人工的ですが
休日で洗車をしに来ている人がいるカー(ポンプでくみ上げています)
田芋畑に直接水を引いているカー。
今回、最もきれいだった、産水(ウブガー)。
正月の若水取りなどもしているそうです。
3つあるうちの手前の2つは女性用、奥は男性用で、
女性用は塀で囲われています。また、クチャという泥土で
髪を洗った場所も残っています。(写真中央)
あふれている水は冷たくて気持ちよかったです。
2006年06月25日
那覇で「考現学」体験☆
何名かで作成している地域情報誌『み~きゅるきゅる』、
今作成中の号は、国際通りの「むつみ橋」です。
で、今まで、歴史、生活史、地域の人の声、地域での活動団体、
お店などで作っていましたが、今回初めて、まちから感じ取る!と
いうことをしてみました。
学生も制作メンバーにいるので、メイン担当のI君は
若者らしく24時間耐久観察!
私は、ニンプーだったのでちょっと配慮してもらって、3.5時間だけ
サブで入って観察してきました。慰霊の日の金曜日の19:30-23:00です。

観察結果はI君に託したので、彼が記事にしてくれるのを
楽しみにしていますが、資料などによってまちを与えられた情報から
考えるのではなく、そうした足がかりに頼ってしまうことなく、
目で、現場で、ただまちを感じる、そこからまちを見つめなおす、というのは
とっても大切な体験だなと感じました。
(研究というスタイルでまちと関わると、最初の自由に感じる、というところが
少ないように思いました。やっぱり、意義とか意味とか、頭で考えてしまう
ことが多いです。)
自分の感性の、チューンナップになりました☆
この企画に感謝!
そして、この考えを思いついた、今和次郎、改めてすばらしいですな
24時間とは言いませんが、12時間くらい、ただ眺めるてメモを
とる、という経験、一度は体験することをお勧めします。
・・・交通量調査じゃないよ
今作成中の号は、国際通りの「むつみ橋」です。
で、今まで、歴史、生活史、地域の人の声、地域での活動団体、
お店などで作っていましたが、今回初めて、まちから感じ取る!と
いうことをしてみました。
学生も制作メンバーにいるので、メイン担当のI君は
若者らしく24時間耐久観察!
私は、ニンプーだったのでちょっと配慮してもらって、3.5時間だけ
サブで入って観察してきました。慰霊の日の金曜日の19:30-23:00です。
観察結果はI君に託したので、彼が記事にしてくれるのを
楽しみにしていますが、資料などによってまちを与えられた情報から
考えるのではなく、そうした足がかりに頼ってしまうことなく、
目で、現場で、ただまちを感じる、そこからまちを見つめなおす、というのは
とっても大切な体験だなと感じました。
(研究というスタイルでまちと関わると、最初の自由に感じる、というところが
少ないように思いました。やっぱり、意義とか意味とか、頭で考えてしまう
ことが多いです。)
自分の感性の、チューンナップになりました☆
この企画に感謝!
そして、この考えを思いついた、今和次郎、改めてすばらしいですな
24時間とは言いませんが、12時間くらい、ただ眺めるてメモを
とる、という経験、一度は体験することをお勧めします。
・・・交通量調査じゃないよ
2006年06月20日
馬鞭の御嶽と風景論
沖縄は一足先に、本日梅雨明けしそうです。
真っ青な空がお昼休みに目に飛び込んできました。
(雨で、地盤が緩んでいたのでほっとしました。)
さて、琉球王府時代の国廟であった、那覇市安里にある
祟元寺の隣に、「馬鞭の御嶽」という御嶽があります。


※この御嶽は、由来記などに記載されている正式な御嶽ではないです。
「馬鞭の御嶽」なんだか、エキセントリックな名前ですが、
ここには、以下のような民話が残されています。
---
昔、安里大親が首里での勤めを果たして、泊の実家に帰宅する途中、
一休みをしていると、品のある老人に誘われて立派な邸宅に招かれた。
そこで、碁を打ち、料理をもてなされ、非常に豊かな時間をすごしたのだが、
はて、このような邸宅がこの辺りにあったのか?と不審に思った
安里大親が、家を去るときに、その場所に目印として馬の鞭を立てて
帰宅をした。翌朝来てみると、鞭を立てたところには、
邸宅の面影は微塵もなかった。
-----
その鞭が立っていたところが拝まれるようになった場所である。
この中で、注目したいのは、まず車社会でなかった頃の距離感、です。
首里と安里、車社会でなかった頃は、あの坂を上流
役人は馬で行き来した事をこの民話は伝えています。
さらに、こういう昔の民話などを調べていると、
お化けとか、きつねとかそういうの信じているのですか?
と学生に聞かれることがあります。
そうではなく、私が計画論や風景論として民話を捉えるときは、
これらが言い伝えられた意味を考えます。
今回の場合は、国廟の横という、かなり聖域に近い場所での
話であること、また、同じだまされた(化かされた)系でも、
お風呂だと思って入ったら沼だったとか、
着物を脱いでくつろいでいたらなくなった、という
迷惑を受けた話ではない事が重要になってきます。
つまり、こういう、ちょっと怖い、奇妙な体験が言い伝えられている場所、
というのは、子どもや外来者に対して、むやみやたらと近寄るべきではない、
という信号を民話という形を通して発信していると考えられるのです。
また、この言い伝えが迷惑を受けたのではなく、歓待を受けたというところも
さすが、国廟のお膝元ならではの民話だといわざるを得ません。
近寄るな、というメッセージを含んだものであっても、
品のいい老人が現れて邸宅で歓待、というだまされ方と
狐にだまされたというのとでは、地域が持つ霊性のイメージが180度
異なるからです。
今日は、民話から、空間のスケールと忌避性についてのお話でした。
真っ青な空がお昼休みに目に飛び込んできました。
(雨で、地盤が緩んでいたのでほっとしました。)
さて、琉球王府時代の国廟であった、那覇市安里にある
祟元寺の隣に、「馬鞭の御嶽」という御嶽があります。
※この御嶽は、由来記などに記載されている正式な御嶽ではないです。
「馬鞭の御嶽」なんだか、エキセントリックな名前ですが、
ここには、以下のような民話が残されています。
---
昔、安里大親が首里での勤めを果たして、泊の実家に帰宅する途中、
一休みをしていると、品のある老人に誘われて立派な邸宅に招かれた。
そこで、碁を打ち、料理をもてなされ、非常に豊かな時間をすごしたのだが、
はて、このような邸宅がこの辺りにあったのか?と不審に思った
安里大親が、家を去るときに、その場所に目印として馬の鞭を立てて
帰宅をした。翌朝来てみると、鞭を立てたところには、
邸宅の面影は微塵もなかった。
-----
その鞭が立っていたところが拝まれるようになった場所である。
この中で、注目したいのは、まず車社会でなかった頃の距離感、です。
首里と安里、車社会でなかった頃は、あの坂を上流
役人は馬で行き来した事をこの民話は伝えています。
さらに、こういう昔の民話などを調べていると、
お化けとか、きつねとかそういうの信じているのですか?
と学生に聞かれることがあります。
そうではなく、私が計画論や風景論として民話を捉えるときは、
これらが言い伝えられた意味を考えます。
今回の場合は、国廟の横という、かなり聖域に近い場所での
話であること、また、同じだまされた(化かされた)系でも、
お風呂だと思って入ったら沼だったとか、
着物を脱いでくつろいでいたらなくなった、という
迷惑を受けた話ではない事が重要になってきます。
つまり、こういう、ちょっと怖い、奇妙な体験が言い伝えられている場所、
というのは、子どもや外来者に対して、むやみやたらと近寄るべきではない、
という信号を民話という形を通して発信していると考えられるのです。
また、この言い伝えが迷惑を受けたのではなく、歓待を受けたというところも
さすが、国廟のお膝元ならではの民話だといわざるを得ません。
近寄るな、というメッセージを含んだものであっても、
品のいい老人が現れて邸宅で歓待、というだまされ方と
狐にだまされたというのとでは、地域が持つ霊性のイメージが180度
異なるからです。
今日は、民話から、空間のスケールと忌避性についてのお話でした。
2006年06月12日
クライナー・ヨーゼフの柳田および南島感
今日は、先日のレビューの続きで、日本民族学学会の
南島文化研究に1960年代に一石を投じたクライナー博士の
多元文化的視点を紹介します。
個別分析法にたつ前の民俗学は、かなり壮大な研究意義を
掲げていたのだなぁと感じるとともに、私の研究仮説として
どのように組み立てるか悩んでいます。

クライナー・ヨーゼフ
民俗学、文化人類学の観点から、日本社会・日本文化の諸問題に深く取り組む。関連する主な業績として、博士論文「奄美大島における宗教と社会」、またヴィーン大学における教授資格取得論文「日本村落の祭祀組織」がある。
1940年3月15日 オーストリア ウィーンにて誕生
1958-61年 ヴィーン大学
1961-63年 東京大学東洋文化研究所に留学
1964年 ヴィーン大学の哲学博士をとる。論文題名「琉球北部の社会と宗教の研究:奄美大島のノロ信仰」
1968年 ヴィーン大学の教授資格を取得。論文題目「日本の村落の祭祀組織」
1971-77年 ヴィーン大学教授 日本学研究所所長
1977- ボン大学教授、日本文化研究所所長、近現代日本研究センター所長
1988-1996年 東京ドイツー日本研究所 初代所長
主な著書
住谷一彦との共著(1977)『南西諸島の神観念』、未来社
クライナー・ヨーゼフ編(1996)『地域性からみた日本―多元的理解のために』、新曜社
-関西学院大学社会学部研究会(2001)『関西学院大学 社会学部紀要 第90号 ヨーゼフ・クライナー名誉博士 特集号』pp.4-5より要約-
■柳田の南島研究と日本文化の統一性という前提への批判
「日・琉同祖論」、言い換えると、南西諸島の民族文化も日本「本島」のそれも同じ基礎文化の上に建っているという方法論的前提を持つ従来の研究にとっては、日本「本島」との比較研究が重大な意味を持っていたことは言うまでもない。特にここに言うノロ信仰の本質ないし起源に関する仮説を見ると、その意味するところは明白である。すなわち、一つの村(マキョ、マチョ)の初めは一つの血縁集団(門中)であり、その頭たる根人が先ず御嶽拝所と自分の居住=根所を決めえ、その妹は、村=門中の祭祀をつかさどり、門中のほかの女性とともに御嶽で村の守護神を拝む。(中略)多少の意見の違いにもかかわらず、一応定説として定着したこのノロ信仰(=制度)の起源仮説は、日本民俗学の学説、作業仮説に徹底的に影響されたとしか考えられない。(中略)柳田国男はすでに大正末期から、家族制度研究との関連で農村社会の研究に取り組み、『日本農民史』(柳田 1931)の中で、農村を発生史的な視角から体系的に分類した。ここにあげているいくつかの類型の中で、彼はその一生の仕事を通じて、特に隠田村落のそれに興味を持ったが、歴史的に見て二次的としか考えられない、いわば落人が山間に土着し開発したこの村落を、日本村落の原型と見做した理由は、多分柳田の基本的に現象学的な方法から生じたと思う。後に日本の農村社会学者たちは、有賀喜左衛門の「家連合」としての村の定義などを受け継いで、日本の農村社会を大きく二つの類型に分けた。すなわち、東日本に見られる、あらゆる生活の面に本・分家の従属関係を重んじるいわゆる同属型は歴史的に古く、日本の村の原型であるのに対して、西日本に分布する講組結合型の村は前者の変遷・解体とみるのがそれである。そして村の氏神はもともと一つの血縁集団(同族)の祖先神に他ならない。この単系的発展思想の裏には、柳田の打ち出したいわゆる周圏論がある。それによれば、全日本の文化的中心地である近畿・畿内から新しい文化要素が次々に周辺に広まり、古い文化を東北と九州以南の島々に追い詰めたというのである。こういう作業仮説、ひいては日本民俗学の通説を前提にするとき、以上に述べてきた従来のノロ信仰(=制度)紀元節がこの枠組みの中で得た所以もよくわかるように思われる。
-クライナー・ヨーゼフ(1984)「南西諸島における神観念・世界観の再考察―奄美の祝女信仰を中心に―」vol.10、『沖縄文化研究』 / 法政大学沖縄文化研究所 [編] pp.199-202 抜粋-
南島文化研究に1960年代に一石を投じたクライナー博士の
多元文化的視点を紹介します。
個別分析法にたつ前の民俗学は、かなり壮大な研究意義を
掲げていたのだなぁと感じるとともに、私の研究仮説として
どのように組み立てるか悩んでいます。

クライナー・ヨーゼフ
民俗学、文化人類学の観点から、日本社会・日本文化の諸問題に深く取り組む。関連する主な業績として、博士論文「奄美大島における宗教と社会」、またヴィーン大学における教授資格取得論文「日本村落の祭祀組織」がある。
1940年3月15日 オーストリア ウィーンにて誕生
1958-61年 ヴィーン大学
1961-63年 東京大学東洋文化研究所に留学
1964年 ヴィーン大学の哲学博士をとる。論文題名「琉球北部の社会と宗教の研究:奄美大島のノロ信仰」
1968年 ヴィーン大学の教授資格を取得。論文題目「日本の村落の祭祀組織」
1971-77年 ヴィーン大学教授 日本学研究所所長
1977- ボン大学教授、日本文化研究所所長、近現代日本研究センター所長
1988-1996年 東京ドイツー日本研究所 初代所長
主な著書
住谷一彦との共著(1977)『南西諸島の神観念』、未来社
クライナー・ヨーゼフ編(1996)『地域性からみた日本―多元的理解のために』、新曜社
-関西学院大学社会学部研究会(2001)『関西学院大学 社会学部紀要 第90号 ヨーゼフ・クライナー名誉博士 特集号』pp.4-5より要約-
■柳田の南島研究と日本文化の統一性という前提への批判
「日・琉同祖論」、言い換えると、南西諸島の民族文化も日本「本島」のそれも同じ基礎文化の上に建っているという方法論的前提を持つ従来の研究にとっては、日本「本島」との比較研究が重大な意味を持っていたことは言うまでもない。特にここに言うノロ信仰の本質ないし起源に関する仮説を見ると、その意味するところは明白である。すなわち、一つの村(マキョ、マチョ)の初めは一つの血縁集団(門中)であり、その頭たる根人が先ず御嶽拝所と自分の居住=根所を決めえ、その妹は、村=門中の祭祀をつかさどり、門中のほかの女性とともに御嶽で村の守護神を拝む。(中略)多少の意見の違いにもかかわらず、一応定説として定着したこのノロ信仰(=制度)の起源仮説は、日本民俗学の学説、作業仮説に徹底的に影響されたとしか考えられない。(中略)柳田国男はすでに大正末期から、家族制度研究との関連で農村社会の研究に取り組み、『日本農民史』(柳田 1931)の中で、農村を発生史的な視角から体系的に分類した。ここにあげているいくつかの類型の中で、彼はその一生の仕事を通じて、特に隠田村落のそれに興味を持ったが、歴史的に見て二次的としか考えられない、いわば落人が山間に土着し開発したこの村落を、日本村落の原型と見做した理由は、多分柳田の基本的に現象学的な方法から生じたと思う。後に日本の農村社会学者たちは、有賀喜左衛門の「家連合」としての村の定義などを受け継いで、日本の農村社会を大きく二つの類型に分けた。すなわち、東日本に見られる、あらゆる生活の面に本・分家の従属関係を重んじるいわゆる同属型は歴史的に古く、日本の村の原型であるのに対して、西日本に分布する講組結合型の村は前者の変遷・解体とみるのがそれである。そして村の氏神はもともと一つの血縁集団(同族)の祖先神に他ならない。この単系的発展思想の裏には、柳田の打ち出したいわゆる周圏論がある。それによれば、全日本の文化的中心地である近畿・畿内から新しい文化要素が次々に周辺に広まり、古い文化を東北と九州以南の島々に追い詰めたというのである。こういう作業仮説、ひいては日本民俗学の通説を前提にするとき、以上に述べてきた従来のノロ信仰(=制度)紀元節がこの枠組みの中で得た所以もよくわかるように思われる。
-クライナー・ヨーゼフ(1984)「南西諸島における神観念・世界観の再考察―奄美の祝女信仰を中心に―」vol.10、『沖縄文化研究』 / 法政大学沖縄文化研究所 [編] pp.199-202 抜粋-
2006年06月09日
柳田國男と『海上の道』
沖縄研究、って内地も含めて本当によくやられているなって
思いませんか?
たとえば、法政大学や京都大学に沖縄のことを研究する
グループがいることなどは、よくしられています。
(もちろん、沖縄の文化は傾倒するに値する価値があると思いますが、
東北など、沖縄以外の地域でも固有の文化を色濃く残している
場所はあるのに、そうした文化に対してグループとして取り組んでいる
とは聞きません。)
その他地域と比較して、これほどまでに熱心に沖縄が
研究された背景について、興味深い本を読んだので
文献レビューをしたいと思います。
柳田國男は日本民族学を、「新国学」として捉え、築き上げましたが、
その研究手法は「重出立証法」といわれるものです。
特に、二回目の山村調査では、民俗語彙に重点を置いて、
調査手法徹底しました。
彼の中で非常に注意しなくてはならないのは、徹底した資料収集による
分析を基にはしていますが、まとめるに当たり、彼の哲学、(それは研究の
調査手法を組み立てる際の前提条件なども含む)がかなり盛り込まれている、
ということです。
彼が民俗学に託した思いは、
・日本人の原型、ルーツを知る(民俗語彙や習俗の差異によって)
です。個々の事例や古いことを知って楽しむためだけの学問ではなく、
それらを体系化し比較研究を行うことによって、日本人が何たるものか、を
規定していこうというスタンスに立っています。
民俗学=新国学、というビジョンに立つ由来です。
比較によって、日本の原型を規定するという研究手法の根幹を担った
重出立証法という手法は、柳田が愛読していたイギリスのゴンム
(Gomme,G.L.)の『歴史科学としての民俗学』(Folklore as an
Historical Science 1908)からそのまま借用したとされています。
また、こちらが彼の研究の分析において大きく影響を
与えているのですが、
・古の形は雛にこそあるとした江戸時代の本居宣長の影響を強く受けている
・「周圏論」という文化伝播の大前提によっているため、文化の
発信地は京都であり、それが次々伝播する形で広域化したため、
古い日本の習俗などは、東北や九州以南に追いやられている
という前提が「最初」にあり、分析がされたということです。
・また、日本が単一民族国家にあった、ということも
大前提として彼の中にあります。
柳田国男は、伊波普猷から『古琉球』(1911)を渡され、
南島文化の研究に目覚めたといいます。
ウチナーグチは、上代の日本語に近く、もっとも早く分岐した
日本語だといわれています。
伊波普猷は、周知の通り沖縄学の父といわれ、おもろそうしをはじめ
琉球時代の資料収集と分析を行った先人です。
このおもろそうしには、上代の日本語による多くの生活事象が
記述されています。
民俗語彙に注意を払って、日本人のルーツを分析していたかれにとって、
日本の上代の言葉を残す沖縄は、まさに、原型、と映ったのではないでしょうか?
その感動が示されている部分を「海上の道」から抜き出してみましょう。
----
三 比較の学問の夜明け
久しく南端の島々に分れ住んで、互いに異国のような感じを養い続けていた沖縄諸島の人たちが近世漸くにして再会の機会を抱えて、言語信仰その他の生活諸相に、埋もれたる上代の一致を心づくに至ったことは、われわれのためにも予期せざる大いなる啓発であり、同時にまた南北太平洋の広大なる水面に、ぱらぱらと散布している島々の居住者にとっても、測り知られぬほどの希望の種であった。(中略)沖縄諸島だけに、それでもまだわずかな近世の文献があって、いささかの昔だけは、これからでも尋ねていかれる。たとえば日本の神代の根の国が、もとは単なる地底の「根」だけでなかったことは、根国・根の島・根どころなどの語からも伺われる。(中略)島々の上代を詠吟した詞曲の中に、しばしばくりかえされていた神の故郷、ニライもしくはニルヤと呼ぶ海上の霊地の名は、多分は我々の根の国のネと同じ言葉の次々の変化であろうと思う。
おもろ草紙に保存せられた詞曲の中には、さまざまの変化を持って同じ言葉が繰り返されて、詳しく分類してみると興味は深いが・・・(後略)
-柳田国男(1967)『海上の道』、筑摩業書、p110-112抜粋、下線加筆-
日本民俗学の父とされる、柳田が新国学という立場から、
沖縄に大きな情熱を注いだこと、多くの門下生がそれに続いたことが
今の民俗学の中での沖縄研究の占める成果だということです。
また、この着想をいだいた文献(下記)では、そのほかに、
柳田自身が日韓併合など朝鮮半島統治のためにアジア民俗の
比較研究を行った(遅れておきた日本の帝国主義と植民地支配に
関与する学問としての文化人類学)自身への戦争責任に対する
強い嫌悪感があり、むしろそれを払拭するかのように、戦後日本の
原型として、奄美諸島の民族調査に邁進した、ということも
指摘しています。
----
「南島」という言葉が特定の意味を持つようになったのは、柳田国男・折田信夫からである。もちろん江戸期にも新井白石がこの言葉を用いて『南島志』(1719年)を著しており、『蝦夷志』(1920年)とともにその土地の風俗は関心をもたれていた。地理的には沖縄本島を中心とする南西諸島ということになるが、周知のように明治期の「南進論」(矢野暢)の時期のいわば「南島探検」(笹森儀助)期を経て大正期になると、改めてこの島々は「日本人」または日本語・日本の宗教の「原郷」・「原日本」という特別な意味合いの下に、彼らの「民俗学」のいわば“約束の土地”として見出されている。明治期の南洋ブームの中での「南島」とは異質な情熱がそこに注がれたのである。
(中略)
つまり1960年代には「思想」として、私の言う“南島イデオロギー”として再び言説化されたからである。
柳田は、歴史的にも「文化」(民族・言語・宗教)的にも、沖縄は「日本」と同一であり、「もともとわれわれが南からやってきた」と言っている(『海南小記』1925年)。稲作文化渡来などとともに「日本人」の起源を語るこの言説は、華南あたりの稲作民が沖縄に宝貝を求め、ボート・ピープルのようにばらばらとやってきて、さらに黒潮にのり、北上して列島に達し、村落国家を作り、やがて大和政権ができたというのである(『海上の道』1961年)。沖縄を「原日本」とするこのビジョンは「雑種性を基盤とする単一民族、という発想を好む」(森常治『日本人』1981年、青英舎)現代の「日本人論」の典型的な言説であり、さらにこのばらばらの人々がこの列島で「単一民族」を作ったというのは、岩井克人が言うようにこれまた典型的な共同体モデルに他ならない。
(中略)
このビジョンによる限りこの「南島」に対しても征服・支配といった露骨な自体から目をそらすことができるし、事実、柳田はそうしたからである。例えば「琉球処分」という近代日本の植民地主義をネグレクトしている。もとより、これは以後の「南島」に関する言説の共通した思考形態である。わずかな例外を除くと「南島」論者は決してそこに征服・支配を見ないからである。
-村井紀(1992)『南東イデオロギーの発生 柳田国男と植民地主義』、福武書店pp.8-9より抜粋-
思いませんか?
たとえば、法政大学や京都大学に沖縄のことを研究する
グループがいることなどは、よくしられています。
(もちろん、沖縄の文化は傾倒するに値する価値があると思いますが、
東北など、沖縄以外の地域でも固有の文化を色濃く残している
場所はあるのに、そうした文化に対してグループとして取り組んでいる
とは聞きません。)
その他地域と比較して、これほどまでに熱心に沖縄が
研究された背景について、興味深い本を読んだので
文献レビューをしたいと思います。
柳田國男は日本民族学を、「新国学」として捉え、築き上げましたが、
その研究手法は「重出立証法」といわれるものです。
特に、二回目の山村調査では、民俗語彙に重点を置いて、
調査手法徹底しました。
彼の中で非常に注意しなくてはならないのは、徹底した資料収集による
分析を基にはしていますが、まとめるに当たり、彼の哲学、(それは研究の
調査手法を組み立てる際の前提条件なども含む)がかなり盛り込まれている、
ということです。
彼が民俗学に託した思いは、
・日本人の原型、ルーツを知る(民俗語彙や習俗の差異によって)
です。個々の事例や古いことを知って楽しむためだけの学問ではなく、
それらを体系化し比較研究を行うことによって、日本人が何たるものか、を
規定していこうというスタンスに立っています。
民俗学=新国学、というビジョンに立つ由来です。
比較によって、日本の原型を規定するという研究手法の根幹を担った
重出立証法という手法は、柳田が愛読していたイギリスのゴンム
(Gomme,G.L.)の『歴史科学としての民俗学』(Folklore as an
Historical Science 1908)からそのまま借用したとされています。
また、こちらが彼の研究の分析において大きく影響を
与えているのですが、
・古の形は雛にこそあるとした江戸時代の本居宣長の影響を強く受けている
・「周圏論」という文化伝播の大前提によっているため、文化の
発信地は京都であり、それが次々伝播する形で広域化したため、
古い日本の習俗などは、東北や九州以南に追いやられている
という前提が「最初」にあり、分析がされたということです。
・また、日本が単一民族国家にあった、ということも
大前提として彼の中にあります。
柳田国男は、伊波普猷から『古琉球』(1911)を渡され、
南島文化の研究に目覚めたといいます。
ウチナーグチは、上代の日本語に近く、もっとも早く分岐した
日本語だといわれています。
伊波普猷は、周知の通り沖縄学の父といわれ、おもろそうしをはじめ
琉球時代の資料収集と分析を行った先人です。
このおもろそうしには、上代の日本語による多くの生活事象が
記述されています。
民俗語彙に注意を払って、日本人のルーツを分析していたかれにとって、
日本の上代の言葉を残す沖縄は、まさに、原型、と映ったのではないでしょうか?
その感動が示されている部分を「海上の道」から抜き出してみましょう。
----
三 比較の学問の夜明け
久しく南端の島々に分れ住んで、互いに異国のような感じを養い続けていた沖縄諸島の人たちが近世漸くにして再会の機会を抱えて、言語信仰その他の生活諸相に、埋もれたる上代の一致を心づくに至ったことは、われわれのためにも予期せざる大いなる啓発であり、同時にまた南北太平洋の広大なる水面に、ぱらぱらと散布している島々の居住者にとっても、測り知られぬほどの希望の種であった。(中略)沖縄諸島だけに、それでもまだわずかな近世の文献があって、いささかの昔だけは、これからでも尋ねていかれる。たとえば日本の神代の根の国が、もとは単なる地底の「根」だけでなかったことは、根国・根の島・根どころなどの語からも伺われる。(中略)島々の上代を詠吟した詞曲の中に、しばしばくりかえされていた神の故郷、ニライもしくはニルヤと呼ぶ海上の霊地の名は、多分は我々の根の国のネと同じ言葉の次々の変化であろうと思う。
おもろ草紙に保存せられた詞曲の中には、さまざまの変化を持って同じ言葉が繰り返されて、詳しく分類してみると興味は深いが・・・(後略)
-柳田国男(1967)『海上の道』、筑摩業書、p110-112抜粋、下線加筆-
日本民俗学の父とされる、柳田が新国学という立場から、
沖縄に大きな情熱を注いだこと、多くの門下生がそれに続いたことが
今の民俗学の中での沖縄研究の占める成果だということです。
また、この着想をいだいた文献(下記)では、そのほかに、
柳田自身が日韓併合など朝鮮半島統治のためにアジア民俗の
比較研究を行った(遅れておきた日本の帝国主義と植民地支配に
関与する学問としての文化人類学)自身への戦争責任に対する
強い嫌悪感があり、むしろそれを払拭するかのように、戦後日本の
原型として、奄美諸島の民族調査に邁進した、ということも
指摘しています。
----
「南島」という言葉が特定の意味を持つようになったのは、柳田国男・折田信夫からである。もちろん江戸期にも新井白石がこの言葉を用いて『南島志』(1719年)を著しており、『蝦夷志』(1920年)とともにその土地の風俗は関心をもたれていた。地理的には沖縄本島を中心とする南西諸島ということになるが、周知のように明治期の「南進論」(矢野暢)の時期のいわば「南島探検」(笹森儀助)期を経て大正期になると、改めてこの島々は「日本人」または日本語・日本の宗教の「原郷」・「原日本」という特別な意味合いの下に、彼らの「民俗学」のいわば“約束の土地”として見出されている。明治期の南洋ブームの中での「南島」とは異質な情熱がそこに注がれたのである。
(中略)
つまり1960年代には「思想」として、私の言う“南島イデオロギー”として再び言説化されたからである。
柳田は、歴史的にも「文化」(民族・言語・宗教)的にも、沖縄は「日本」と同一であり、「もともとわれわれが南からやってきた」と言っている(『海南小記』1925年)。稲作文化渡来などとともに「日本人」の起源を語るこの言説は、華南あたりの稲作民が沖縄に宝貝を求め、ボート・ピープルのようにばらばらとやってきて、さらに黒潮にのり、北上して列島に達し、村落国家を作り、やがて大和政権ができたというのである(『海上の道』1961年)。沖縄を「原日本」とするこのビジョンは「雑種性を基盤とする単一民族、という発想を好む」(森常治『日本人』1981年、青英舎)現代の「日本人論」の典型的な言説であり、さらにこのばらばらの人々がこの列島で「単一民族」を作ったというのは、岩井克人が言うようにこれまた典型的な共同体モデルに他ならない。
(中略)
このビジョンによる限りこの「南島」に対しても征服・支配といった露骨な自体から目をそらすことができるし、事実、柳田はそうしたからである。例えば「琉球処分」という近代日本の植民地主義をネグレクトしている。もとより、これは以後の「南島」に関する言説の共通した思考形態である。わずかな例外を除くと「南島」論者は決してそこに征服・支配を見ないからである。
-村井紀(1992)『南東イデオロギーの発生 柳田国男と植民地主義』、福武書店pp.8-9より抜粋-
2006年05月22日
計画論としての御嶽等拝所の意味
保全を制度として考えると、民有地などの場合、私的財産権の制限にもつながるため、
これらをどうして保全しなければならないのかを機能面で考えています。
●御嶽等拝所に対して●
昔から守られてきた、聖なる地域のよりどころとして必要、という絶対的価値観
→これが最大にして必要十分な理由だと、いう方も多いと思いますが、
この価値観以外にどのような理論武装がありえるのかをあげてみます。
(実際に、地元の自治会長さんなどにヒアリングをしていると、おがみなどは、
非現実的だからやる意味が無い、といわれる方もいます。特に60代前後に
多いかと思うのですが・・・。それより上の先輩方が必要だというので
やっているということです。しかし、これにはゆりもどしもあって、さらに下の世代
では沖縄のこうした独自のものを大切にしたいという意識があるように
思います。)
○御嶽・殿
1)宗教施設としての価値
・ 祖霊崇拝のひとつの形
・ ニライカナイ信仰
2)地域固有の施設としての価値
・ 精神的安心感
・ コミュニティ施設
・ 地域のアイデンティティのひとつ(ただ、●●らしさ、という語では出てきにくい施設)
○御嶽を含む拝所林
1)微気象緩和としての価値
・ 防風林
・ 水源涵養林
2)利用価値
・ 薪採取など里山的機能
3)アメニティとしての価値
・ 空間構造のもつ精神的安心感
(ex)J.アップルトンの背後に隠れる場所があり、前面に開けるという人間が安心する空間の典型例)
・ ランドマーク的な存在
井戸など
1)利用価値
・ 石灰岩質の本島南部、および宮古などの低島では生存条件
・ 現在でも農業用水などに利用している井戸はいくつかある
2)交流施設
・ ムラガーの利用の際に、地域住民の交流があった。
3)環境教育的機能
・ 水の利用の仕方などに決まりがあり、また環境循環の空間単位が小さかったため、水源を汚さないようにするなどの意識の共有が容易であった(?)
・ 正月の若水取りなどの祭祀が行われるなど、火の神と並んで信仰の対象だった。
これらをどうして保全しなければならないのかを機能面で考えています。
●御嶽等拝所に対して●
昔から守られてきた、聖なる地域のよりどころとして必要、という絶対的価値観
→これが最大にして必要十分な理由だと、いう方も多いと思いますが、
この価値観以外にどのような理論武装がありえるのかをあげてみます。
(実際に、地元の自治会長さんなどにヒアリングをしていると、おがみなどは、
非現実的だからやる意味が無い、といわれる方もいます。特に60代前後に
多いかと思うのですが・・・。それより上の先輩方が必要だというので
やっているということです。しかし、これにはゆりもどしもあって、さらに下の世代
では沖縄のこうした独自のものを大切にしたいという意識があるように
思います。)
○御嶽・殿
1)宗教施設としての価値
・ 祖霊崇拝のひとつの形
・ ニライカナイ信仰
2)地域固有の施設としての価値
・ 精神的安心感
・ コミュニティ施設
・ 地域のアイデンティティのひとつ(ただ、●●らしさ、という語では出てきにくい施設)
○御嶽を含む拝所林
1)微気象緩和としての価値
・ 防風林
・ 水源涵養林
2)利用価値
・ 薪採取など里山的機能
3)アメニティとしての価値
・ 空間構造のもつ精神的安心感
(ex)J.アップルトンの背後に隠れる場所があり、前面に開けるという人間が安心する空間の典型例)
・ ランドマーク的な存在
井戸など
1)利用価値
・ 石灰岩質の本島南部、および宮古などの低島では生存条件
・ 現在でも農業用水などに利用している井戸はいくつかある
2)交流施設
・ ムラガーの利用の際に、地域住民の交流があった。
3)環境教育的機能
・ 水の利用の仕方などに決まりがあり、また環境循環の空間単位が小さかったため、水源を汚さないようにするなどの意識の共有が容易であった(?)
・ 正月の若水取りなどの祭祀が行われるなど、火の神と並んで信仰の対象だった。
2006年05月18日
公園整備と御嶽のデザイン
御嶽は、地域の聖域ですが、文化財指定がなされていないもの
に関しては、かなり自由な(?)設計変更が、特に公園整備と関連して
行われているな、、、と疑問に思っていました。
そこで、本日、市役所の都市デザイン室と、文化財課に
ヒアリングに行ってきました。
結局、どちらでも現在まで御嶽等拝所の整備について、
景観審議会なり、景観アドバイザーなりで調整を図ったことは
ないそうです。
設計者に話を聞く機会を先週設けて、そちらに個々の事例について
設計過程を聞いたときは、地元の古老たちと意見調整を持って
進めた以外は特に調整は行わなかったとのことでした。
原型の継承において、
地元の人が管理しやすいと感じる形が原型と異なる場合、
または設計者が、安全と感じる形が原型と異なる場合、
これらについては、現在のところなんら保全の手立てが
されていません。
また、それらの動きについて、とくに民有地に関しては、
監視機能が建築確認申請もしくは開発許可と連動する
体制にはなっていないということも明らかになりました。
・・・結構深刻な欠陥だと思います。
今回は、その現状を確認するとともに、現在整備が始まろうと
している森口公園について、ぜひ、担当課(公園緑地課)に
対して景観アドバイスができるように要請してきました。
に関しては、かなり自由な(?)設計変更が、特に公園整備と関連して
行われているな、、、と疑問に思っていました。
そこで、本日、市役所の都市デザイン室と、文化財課に
ヒアリングに行ってきました。
結局、どちらでも現在まで御嶽等拝所の整備について、
景観審議会なり、景観アドバイザーなりで調整を図ったことは
ないそうです。
設計者に話を聞く機会を先週設けて、そちらに個々の事例について
設計過程を聞いたときは、地元の古老たちと意見調整を持って
進めた以外は特に調整は行わなかったとのことでした。
原型の継承において、
地元の人が管理しやすいと感じる形が原型と異なる場合、
または設計者が、安全と感じる形が原型と異なる場合、
これらについては、現在のところなんら保全の手立てが
されていません。
また、それらの動きについて、とくに民有地に関しては、
監視機能が建築確認申請もしくは開発許可と連動する
体制にはなっていないということも明らかになりました。
・・・結構深刻な欠陥だと思います。
今回は、その現状を確認するとともに、現在整備が始まろうと
している森口公園について、ぜひ、担当課(公園緑地課)に
対して景観アドバイスができるように要請してきました。
2006年05月16日
久高島巡検報告&考察
写真などを取り込んだので、写真の解説&補足的に
文献で調べたことを中心に・・・。
まず、島全体について。
これは、アザマ港にあった島案内の地図。

南北に長い島となっています。

島の南部に集落が集中しています。集落北部には、ノロや根屋の
家が集まっています。

徐々に久高島に接近。地質的には隆起石灰岩質(たぶん)の低島です。
表層水は無く、水は、集落南部の西海岸沿いの湧き水からしか流れません。

現在でものこる地割制度を継承した「久高島土地総有制」。
畑地は短冊状に分割されています。

島の東側は、聖なる方向として認識されています。
ニライカナイから五穀のつぼが流れついたというイシキ浜(東海岸)の
石です。(きれいな石ですが、この浜からは、石も貝もなにも
持ち出してはいけない、とされています。)
御願立(ウガンダテ)に始まり、御願解き(ウガンブドゥキ)に終わる
年中祭祀の最初と終わりがここで執り行われます。(参照:『おんなが守る島』)
これは帰ってきてから、法政大学の沖縄研究集を読んでいたときに
高遠武馬先生の記述の中からみつけた孫引きですが、
東の海岸かなたにある楽園「ニライカナイ」、これに対して、
柳田国男の晩年の著『海上の道』(昭和36年)の中で、
「根の国の話」として、本土の他の地と比較されています。
具体的には、
--
先生の晩年の主要課題であった日本人の神信仰を追求したものであった。
われわれの竜宮思想が沖縄諸島のニルヤの観念に通じるものであり、
「ニライもしくはニルヤと呼ぶ海上の霊地の名は多分は我々の
根の国のネと同じ言葉の次々の変化」であろうとみる先生は、
その根の国にわれわれが暗いイメージを持った常世の国と当てたのは
まちがいで、本来は根の国はもっと安らかな、此の世の人も
行ったり来たりして亡き人にあえる国がはるかなる海のかなたにかつては
あつたと人々は信じていたとうことを南島諸島の古記録や神話伝説等と
比較して論じていた
-論考「沖縄と柳田国男」より-
という記述があります。
久高島での巡検と、柳田国男の説を比較すると、
ニライカナイ=根の国であるのなら、暗いイメージはあまりありませんが、
前述した、後の世に関する考え方(民間伝承として久高島に残っている
言い伝えや、後世(グショウ)の世界観)からすると、あの世(死後の世界)に
対する忌避性は、本土に伝わった「根の国」のイメージに近いのではないかと
考えられるため、この部分は反証する結果です。
その、あの世の世界観をあらわすのは、西側。西側には、
後世(グショウ)と現世を分ける塀が作られ、風葬地帯や墓の場所となっています。
また今回はいけませんでしたが、グショウに行ったときに、禊をおこなう
ミーガーという井戸もこちらにあります。


忌避性が強く、釣り場としても、港としても使われなかったため、
手付かずの自然が残る西海岸。
柳田国男先生の研究手法は、「(隔絶地点の近くには向かない
とされる)重出立証法」によっているので、琉球弧と本土といったように
距離的歴史的隔たりがある場合は、調査結果に誤りが出てくるのかな?
と思いました。
文献で調べたことを中心に・・・。
まず、島全体について。
これは、アザマ港にあった島案内の地図。
南北に長い島となっています。
島の南部に集落が集中しています。集落北部には、ノロや根屋の
家が集まっています。
徐々に久高島に接近。地質的には隆起石灰岩質(たぶん)の低島です。
表層水は無く、水は、集落南部の西海岸沿いの湧き水からしか流れません。
現在でものこる地割制度を継承した「久高島土地総有制」。
畑地は短冊状に分割されています。
島の東側は、聖なる方向として認識されています。
ニライカナイから五穀のつぼが流れついたというイシキ浜(東海岸)の
石です。(きれいな石ですが、この浜からは、石も貝もなにも
持ち出してはいけない、とされています。)
御願立(ウガンダテ)に始まり、御願解き(ウガンブドゥキ)に終わる
年中祭祀の最初と終わりがここで執り行われます。(参照:『おんなが守る島』)
これは帰ってきてから、法政大学の沖縄研究集を読んでいたときに
高遠武馬先生の記述の中からみつけた孫引きですが、
東の海岸かなたにある楽園「ニライカナイ」、これに対して、
柳田国男の晩年の著『海上の道』(昭和36年)の中で、
「根の国の話」として、本土の他の地と比較されています。
具体的には、
--
先生の晩年の主要課題であった日本人の神信仰を追求したものであった。
われわれの竜宮思想が沖縄諸島のニルヤの観念に通じるものであり、
「ニライもしくはニルヤと呼ぶ海上の霊地の名は多分は我々の
根の国のネと同じ言葉の次々の変化」であろうとみる先生は、
その根の国にわれわれが暗いイメージを持った常世の国と当てたのは
まちがいで、本来は根の国はもっと安らかな、此の世の人も
行ったり来たりして亡き人にあえる国がはるかなる海のかなたにかつては
あつたと人々は信じていたとうことを南島諸島の古記録や神話伝説等と
比較して論じていた
-論考「沖縄と柳田国男」より-
という記述があります。
久高島での巡検と、柳田国男の説を比較すると、
ニライカナイ=根の国であるのなら、暗いイメージはあまりありませんが、
前述した、後の世に関する考え方(民間伝承として久高島に残っている
言い伝えや、後世(グショウ)の世界観)からすると、あの世(死後の世界)に
対する忌避性は、本土に伝わった「根の国」のイメージに近いのではないかと
考えられるため、この部分は反証する結果です。
その、あの世の世界観をあらわすのは、西側。西側には、
後世(グショウ)と現世を分ける塀が作られ、風葬地帯や墓の場所となっています。
また今回はいけませんでしたが、グショウに行ったときに、禊をおこなう
ミーガーという井戸もこちらにあります。
忌避性が強く、釣り場としても、港としても使われなかったため、
手付かずの自然が残る西海岸。
柳田国男先生の研究手法は、「(隔絶地点の近くには向かない
とされる)重出立証法」によっているので、琉球弧と本土といったように
距離的歴史的隔たりがある場合は、調査結果に誤りが出てくるのかな?
と思いました。
2006年05月14日
久高島巡検
琉大の赤嶺先生に連れられて、久高島に行ってきました。
久高島は、ご存知の方も多い、琉球王国時代の第一の聖域です。
本島南部の安座間港からフェリーで20分程度ですが、
地割制度からの流れを汲む、久高島「土地総有制」という憲章を
作成し、リゾート開発などから島の開発を守ったとても
ユニークな島です。
(こちらは、憲章などを入手しているので、後日解説します。)
巡検では、ニライカナイから五穀が上陸したという浜を歩いたり、
かつての風葬場所をあるいたりしたのですが、ここら辺は
私の調べたことではなく、赤嶺先生が長年にわたって
調査されたことなので、割愛。とっても面白いですよ~!
くわしくは先生の著書の『シマの見る夢』をご覧ください。
民俗信仰と空間に対する世界観がいくつか紹介されるので、
計画論的には深めたいところです。
建築構造的に興味深かったのは、後世(ぐしょう)の世界観。
島の西側に、この世とあの世(グショウ)との境界とされる
塀が築かれています。

↑この塀の向こうが、あの世の世界、という民族世界観。
あの世とこの世が、くっきりと区切られていて、でも
塀の高さ的には、腰より低いのでひょいともまたげる、
なんともいえない高さです。
前回、ご一緒したときも面白かったのですが、
今回この石垣が、「のづら積み」という技術のいらないつみ方
(竹富島などのもの)ではなく、「相方(あいかた)積み」という
それよりは高度な積み方で作られていることに気づきました。
民間習俗の中で信じられてきた、あの世の世界観を、
これだけきっちりとした土木技術で作った時代が
あった、という事実を再度考えてみたいな、と
思いました。
豆知識ーーー
後世(こうせい)、はのちの世という意味ですが、
同じ感じで、ごせ、もしくはごせい、と読む仏教用語があります。
ごせ 1 【後世】
〔仏〕
(1)死後の世界。来世。後生(ごしよう)。
→前世
→現世
(2)来世での安楽。後生善所(ごしようぜんしよ)。
「―を願う」
――を弔(とむら)・う
故人の来世の安楽を願って法要を行う。
(goo国語辞書より)
久高島は、ご存知の方も多い、琉球王国時代の第一の聖域です。
本島南部の安座間港からフェリーで20分程度ですが、
地割制度からの流れを汲む、久高島「土地総有制」という憲章を
作成し、リゾート開発などから島の開発を守ったとても
ユニークな島です。
(こちらは、憲章などを入手しているので、後日解説します。)
巡検では、ニライカナイから五穀が上陸したという浜を歩いたり、
かつての風葬場所をあるいたりしたのですが、ここら辺は
私の調べたことではなく、赤嶺先生が長年にわたって
調査されたことなので、割愛。とっても面白いですよ~!
くわしくは先生の著書の『シマの見る夢』をご覧ください。
民俗信仰と空間に対する世界観がいくつか紹介されるので、
計画論的には深めたいところです。
建築構造的に興味深かったのは、後世(ぐしょう)の世界観。
島の西側に、この世とあの世(グショウ)との境界とされる
塀が築かれています。
↑この塀の向こうが、あの世の世界、という民族世界観。
あの世とこの世が、くっきりと区切られていて、でも
塀の高さ的には、腰より低いのでひょいともまたげる、
なんともいえない高さです。
前回、ご一緒したときも面白かったのですが、
今回この石垣が、「のづら積み」という技術のいらないつみ方
(竹富島などのもの)ではなく、「相方(あいかた)積み」という
それよりは高度な積み方で作られていることに気づきました。
民間習俗の中で信じられてきた、あの世の世界観を、
これだけきっちりとした土木技術で作った時代が
あった、という事実を再度考えてみたいな、と
思いました。
豆知識ーーー
後世(こうせい)、はのちの世という意味ですが、
同じ感じで、ごせ、もしくはごせい、と読む仏教用語があります。
ごせ 1 【後世】
〔仏〕
(1)死後の世界。来世。後生(ごしよう)。
→前世
→現世
(2)来世での安楽。後生善所(ごしようぜんしよ)。
「―を願う」
――を弔(とむら)・う
故人の来世の安楽を願って法要を行う。
(goo国語辞書より)
2006年04月17日
新聞取材
社会人+学生10数名で作っている
参加型地域情報誌「み~きゅるきゅる」で
新聞取材を受けました。
(今回は、他の人の都合がつかなかったので
2人で載っています。・・・ちょっとおなかが目立ってきたかな?)
この雑誌は、沖縄に来て、最初の年の年度末に
こんなことしたら?とこっちで知り合ったNPOの
皆様に提案し、一緒に立ち上げた雑誌です。
今は、他にも有志が集まってわいわいと作っています~。
3号ほど作り、ただいま4号目を作成中。

4/12、沖縄タイムスの夕刊。
まち歩きの達人、という紹介が、なかなか恐れ多いです
詳しい活動状況は、こちらに~。
http://studio396.ti-da.net/
地元に愛されて、育ってほしい雑誌です
参加型地域情報誌「み~きゅるきゅる」で
新聞取材を受けました。
(今回は、他の人の都合がつかなかったので
2人で載っています。・・・ちょっとおなかが目立ってきたかな?)
この雑誌は、沖縄に来て、最初の年の年度末に
こんなことしたら?とこっちで知り合ったNPOの
皆様に提案し、一緒に立ち上げた雑誌です。
今は、他にも有志が集まってわいわいと作っています~。
3号ほど作り、ただいま4号目を作成中。
4/12、沖縄タイムスの夕刊。
まち歩きの達人、という紹介が、なかなか恐れ多いです

詳しい活動状況は、こちらに~。
http://studio396.ti-da.net/
地元に愛されて、育ってほしい雑誌です
2006年03月31日
親しまれる御嶽
高良公園:
この字の御嶽は、公園として非常に
立派に整備されています。原型からの変化は
大きいと思いますが、特筆すべきなのは
地域での拝みに100人以上の人が
関わっているという事です。
他の字での拝みが自治会長さんなど役員を
中心に行われるのに対して、こちらでは
地域住民皆がそれぞれ、拝みを行います。
ex)息子が大学受かりますようにとか、
安産になりますように、とか。
そういう意味では、地域の人に親しまれている
御嶽といっていいでしょう。

また、戦争によって井戸がつぶされてしまいましたが、
井戸の碑をつくって拝みの対象としています。
碑の前には、井戸のモニュメントがあります。
井戸を大切にするのは沖縄南部でよく見られる現象です。

※御嶽は、聖なる祈りの場所です。拝するときは謙虚な気持ちで。
決して遊び半分で近寄ったり、汚したりすることに無いように気をつけましょう。
この字の御嶽は、公園として非常に
立派に整備されています。原型からの変化は
大きいと思いますが、特筆すべきなのは
地域での拝みに100人以上の人が
関わっているという事です。
他の字での拝みが自治会長さんなど役員を
中心に行われるのに対して、こちらでは
地域住民皆がそれぞれ、拝みを行います。
ex)息子が大学受かりますようにとか、
安産になりますように、とか。
そういう意味では、地域の人に親しまれている
御嶽といっていいでしょう。

また、戦争によって井戸がつぶされてしまいましたが、
井戸の碑をつくって拝みの対象としています。
碑の前には、井戸のモニュメントがあります。
井戸を大切にするのは沖縄南部でよく見られる現象です。

※御嶽は、聖なる祈りの場所です。拝するときは謙虚な気持ちで。
決して遊び半分で近寄ったり、汚したりすることに無いように気をつけましょう。
2006年03月30日
息をのむ御嶽
森口公園の御嶽:
とってもきれいです。
非日常の世界に迷い込んだかのような
息をのむ美しさがあります。
初めて来た時は涙が出そうでした。
大学時代の友人(ランドスケープアーキテクト)が来たので、
小禄村の中でも原型をとどめている、森口公園の御嶽に
一緒に行きました。
現在、この公園は、字から那覇市が徐々に公園として
買い上げている場所で、そのうち完全に都市公園となってしまうのですが、
現在は整備も途中段階で、特に拝所部分はまったく手付かずで残っています。

公園の北端の林に小さな小道があり、日中の強い日差しが柔らかな
木漏れ日へと表情を変えます。
そこを抜け出ると、

ぽっかりとした広場があり、香炉を置いただけの拝所が、木々の根元に
林立しています。
自然と厳かな気持ちになる、そんな拝所空間でした。
友人は、公園に指定されてしまっていても、変に照明などが無いのが
素晴らしいと言っていました。
入り口付近には柵などが設置されてしまっているのですが、
今後もあまり人為的な整備が入ってほしくないなと思いました。
※御嶽や拝所は、聖なる場所です。決して遊び半分で近寄ったり、
ゴミを捨てて行ったりしないようにしましょう~。
とってもきれいです。
非日常の世界に迷い込んだかのような
息をのむ美しさがあります。
初めて来た時は涙が出そうでした。
大学時代の友人(ランドスケープアーキテクト)が来たので、
小禄村の中でも原型をとどめている、森口公園の御嶽に
一緒に行きました。
現在、この公園は、字から那覇市が徐々に公園として
買い上げている場所で、そのうち完全に都市公園となってしまうのですが、
現在は整備も途中段階で、特に拝所部分はまったく手付かずで残っています。

公園の北端の林に小さな小道があり、日中の強い日差しが柔らかな
木漏れ日へと表情を変えます。
そこを抜け出ると、
ぽっかりとした広場があり、香炉を置いただけの拝所が、木々の根元に
林立しています。
自然と厳かな気持ちになる、そんな拝所空間でした。
友人は、公園に指定されてしまっていても、変に照明などが無いのが
素晴らしいと言っていました。
入り口付近には柵などが設置されてしまっているのですが、
今後もあまり人為的な整備が入ってほしくないなと思いました。
※御嶽や拝所は、聖なる場所です。決して遊び半分で近寄ったり、
ゴミを捨てて行ったりしないようにしましょう~。
2005年12月12日
亀甲墓?天円地方墳?ー沖縄の墓。
沖縄独特の墓として有名な亀甲墓。
あの独特の形態は、女性の子宮だと伝えられています。
しかし、最近、私はこの説に疑問を持っておりまして、
何人かの先行研究者が指摘したとおり、天円地方墳と
捉える方がすっきりするのではないかと思うのです。
今日はお試しの投稿なので、この理由は、次回の投稿にて。
あの独特の形態は、女性の子宮だと伝えられています。
しかし、最近、私はこの説に疑問を持っておりまして、
何人かの先行研究者が指摘したとおり、天円地方墳と
捉える方がすっきりするのではないかと思うのです。
今日はお試しの投稿なので、この理由は、次回の投稿にて。


